大槻 雄一郎(おおつき ゆういちろう)さん
1975年生まれ。新卒で日本オラクル社に入社し、営業職として様々な経験を積みました。その後ベンチャー企業に参画し、営業統括として活躍しました。数年後に同社との契約を業務委託に切り替え、同社の業務のほか、営業のフリーランスとしても活動しました。2018年より自身が代表を務めるピープルアート株式会社の事業拡大に注力しています。
ファーストキャリアはオラクルで
「僕が就職活動をしていた97年頃というのは世の中的には不況でした。ちょうど山一証券が潰れたりしていた頃です」
大槻さんは大学を卒業後に日本オラクル社に入った。
ソフトウェアからハードウェア、サービスまでやっているIT企業だ。
「自分のキャリアを考える中で将来的には自分で何かをやってみたいという気持ちがその時からおぼろげにはあって、まずは経験を積みたい、武器が欲しいと思っていました。当時必要だと思っていたのは英語のスキルとITの技術。それを身につけられる会社というのを就職活動の軸に考えていました」
当時は今ほどインターネットが発展していなかった。
就職活動の資料も郵送で取り寄せていた。
「たくさん取り寄せた中に1通、サーフボードの形をした特徴的なハガキがありました。 ぜひ波に乗りましょうという洒落たメッセージでした。その頃サーフィンもやっていたので面白そうだなと思い、かつその会社がITの会社だし行ってみようと思ったのがオラクルとの出会いです」
大槻さんは結局、オラクル社と、別のベンチャー企業から内定をもらう。
ともに魅力的で、どちらに進むべきか迷った末に、オラクル社への挑戦を決めた。
編集部メモ:
オラクル社の説明会で、とても印象的な話を聴いたそうです。
「説明会で話した採用の責任者の人が”たったひとつだけ私が考えるアドバイスがあって、採用が決まって会社を選ぶときに何のことでもいいからナンバーワンを取った会社に入るのがいいと思う。ナンバーワンにはナンバーワンの理由が絶対にある。ナンバーワンの会社に入るとなぜナンバーワンになるのかを経験できるので、そこは大きなポイントになると思う”という話をしてくれました」
原点を作ってくれた上司との出会い
9年間のオラクル勤務のなかで、およそ3年ずつ部署異動を経験している。
「最初は、人が好きだという自分のパーソナリティもあって人事に興味があり、人事管理システムの営業に配属になりました。人をリソースとして扱ってデータにもとづいて人材と業務の最適なマッチングをかけて業績をあげていくというコンセプトがあったんですが、あの当時日本で求められていたのは給与システムだったんです。イメージと違ったなというのはありました。また、僕は製品についている営業だったんですが、お客さんについている営業部隊というのが当時あって、ペアで営業に行っていました。そうすると製品力というよりはその営業さんの力で売上が変わるということが分かって来て、それでお客さんについているほうの営業部署に異動させてもらいました」
異動した1年目は大変だった。
販売したあとにトラブルが起こることもしばしばあり、火消しに奔走した。
「そういう仕事をしながらも、売上目標に対するプレッシャーもあって、異動1年目は何をしていいか分からず落ち込んでいました」
そんな折、プライベートでも家族にご不幸があった。
弟さんが海の事故で亡くなった。
仕事もプライベートも大変に厳しいそんな頃、会社が期の変わり目に差し掛かった。
新たに上司になる人が声をかけてくれた。
プライベートの出来事にも、業務上の大変さにも、言い尽くせないほど配慮ある言葉をかけてくれた。
「そこまで人として向き合ってくれた人というのは初めてだったんですね。僕に対してきちんと愛情を注いでくれる。それで一気にいろんなものが抜けて、この人に絶対ついて行こうと思えました。吹っ切れて、期が変わってからずっとその上司に着いて行って、言われたことは全部やって1年間過ごしました。そうしたら本当もうドラマじゃないですけど、その期の期末の最終日に凄い大きな受注が決まったんです」
この受注に結びつけるために、様々なチャレンジをしてきていた。それが形になったのだ。
「最後に相手方の役員の方に直筆のサインをいただいて、数字が上がって本当に自信になりました。なによりいろんなことを丁寧にさせてもらったことが今の自分を支えている財産です。この1年間の経験が営業としての支えになっているし、人の善意や優しさ、愛に触れて、もらったことを誰かにしてあげたいと思えるようになれたことも今の僕の基本になっています」
オラクル社内での活躍から、ベンチャーへの転職
「オラクル時代の最後の3年は、社内の新プロジェクトに異動になりました」
海外でファーストプロジェクトを作って日本で実行する、そのプロジェクトメンバーに選ばれた。
製品のことも詳しい、営業としての実績もある、2つの武器を持っていたからこその抜擢だった。
これまでの経験が全て活きた。それを見越しての会社の采配でもあったのかもしれない。
「ありがたいことに東日本というエリアを見させていただいて、北海道から名古屋まで担当しました。チーミングやマネジメント、メンバーとのコミュニケーション、主要顧客とのコミュニケーション、本当に色々な経験をさせてもらえて、この3年間もとても楽しかったんです」
それでもこのあと転職する道を選ぶ。
「僕がどん底の時に声をかけてくれた前部署時代のあの上司が、次の挑戦をしたいということで、ベンチャーにジョインしたんです。僕はその上司に個人的にメンターになってもらっていたので色々お話を聴いていたんですが、段々”僕も手伝いたいです”という気持ちになっていきました。それで、部署異動するような感覚でオラクルを辞めて、ベンチャーに転職しました」
意気揚々と転職したベンチャーだったが、1年でもう一度転職することになる。
「転職先はもともとあったベンチャー企業で、創業社長がいて、僕の上司だった方はナンバー2として迎えられました。そのふたりの価値観や考え方に違いがあって、なかなか折り合いがつかないことがあったんです。僕は雇われの身でしたが、株を持っている人がオーナーで、オペレーションの長を決められて、その人がチームを決めていく。組織は結局トップで決まるということを間近で見ました。また、事業プランや企画は外部のみなさまから賛同されていたんですが、エンジニアチームから一向に製品が上がって来ず、売りに行きたいのに売り物が無いという時間も過ごしました。そういった事情が重なって、結局1年で辞めることになりました」
ベンチャー企業の営業統括として成果をあげる
このあと、人のご縁でマーズフラッグという会社と出会う。
「その社長と会った時、それまでも秀才は何人も見てきましたが、初めて天才に会ったと思いました」
マーズファインダーという検索エンジンを扱う会社だった。
製品へのこだわりも強くあり、Googleに勝ちたいという想いも強く感じた。
「既にちゃんとした売り物があって、お客さんも何社かついている。でも売っていける人がいないから法人営業のプロを探している。上場も目指していて、成果が出ればいくらでも払うから思うとおりに営業をしてくれ、と言われました。売りたいのに売り物が無い1年間を過ごした僕からすれば、これはやるしかないなとなりました」
1週間考えてもどうしてもやりたいという想いがずっとあった。
「オラクルを辞めた時に結婚して、この転職を考えている時に最初の子が生まれるタイミングでした。お父さんとして頑張らないといけない時でもあったので、勝負かけようという気持ちもあって、マーズフラッグに参画しました」
持っている法人営業のノウハウをすべて注ぎ込んだ。
思うとおりに営業をした。結果がついてきた。楽しかった。
「最初の1、2年で黒字化して、事業の目処が立ってポテンシャルが見えてくるところまで持って行けました」
波に乗っているように見えたこの頃、自分は次は何をしようか、ということを模索し始めていた。
「上場を本当に達成するなら、自分が営業を頑張るだけじゃなくて、全社が一丸となるトータル力が試されます。自分が営業を頑張るだけではチームとしての力は増えていかないと感じました。でも営業以外のところにも自分が影響力をつけて何かをやっていこうという気持ちは、正直その時は起きなかったんです。前職のベンチャーを見て、トップで決まってしまうことが大きいと思っていました。なのでそこは、代表がこうすると決めたことを自分のできることでサポートしていくしかないと思っていました」
少しずつ会社の今後ではなく「自分の次の在り方」を考えるようになっていた。
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